メディアでは、体罰の是非について、様々に議論されています。ここでは、特定の事例に焦点を当てることはしませんが、学習の自律性を指導の核に置いている教室として、体罰について触れてみたいと思います。
原因と結果の関係
まず確認していただきたいことは、体罰が、原因と結果の関係を歪めてしまうということです。
たとえば、「練習をしない → 上手くならない」、というのが、通常の因果関係です。そして、「上手くなりたい → 練習をする」という行動が、それに続きます。
ここで重要なことは、練習をしないことと、罰を受けることは、本質的に、関係がないということです。なぜ、練習をしないからといって、殴られなければならないのでしょう。試合に負けて悔しい思いをする、メンバーから外される、これは当然の結果です。しかし、殴られるいわれは、どこにもありません。
それに加え、「罰を受けたくない → 練習をする」という行動は、自分で選択したことではありません。サーカスの動物たちのように、やらされているだけです。そして、その結果を、再び脈絡のない罰という歪んだ形で受けなければなりません。
指導者の奢り
因果関係の把握は、物事を考える際の第一歩です。私たちは、因果関係から、予測を立て、行動を決定します。しかし、罰によって自然な因果関係が断ち切られると、生徒は、自分で考えて選択したり、その結果の責任を受けたりすることができません。罰や褒美を与えてくれる存在に、盲目的に従うしかなくなってしまうのです。
一体、指導者は何がしたいのでしょうか。体罰の問題からは、自然な因果関係にとって代わり、結果だけを与えよう・求めようとする、指導者の傲慢な姿勢が見て取れます。
指導者が、生徒たちを変えられるなどというのは、ある意味で、傲慢そのものです。変わるのは、生徒たち自身です。指導者の役割は、変わろうとする生徒たちをサポートし、促すことです。生徒の選択、結果、責任は、生徒自身のものです。それらを示し、注意を喚起し、見守ることが、大人の役割です。生徒から、選択、結果、責任を奪うことは、生徒の人間としての尊厳や成長の機会を奪うことになります。
自分自身の価値を認めることを「セルフ・エスティーム」と呼び、自発的な問題解決にはなくてはならない要素です。原因と結果を断ち切ってしまう罰は、子どもたちからセルフ・エスティームを奪い、逆に、自力での問題解決を困難にしてしまいます。つまり、「叱られなければ何もできない」子になってしまうのです。
- セルフ・エスティーム(Self-esteem)
- 「セルフ・エスティームとは、自分のことを肯定的に認め、自分に自信をもち、自分自身の価値を認めていることを意味します。これは、うぬぼれや、独り善がりや、虚栄心などを含んでいません。自分のことが好きであり、それゆえ大切であると感じることです。この感覚が十分に備わっている人は、単に自分に対してだけではなく、他人に対しても価値を尊重するようになるといいます。すなわち、寛大で、心温かく、豊かな人間関係を形成できるのです。また、セルフ・セスティームが備わっていると、困難な場面に出合っても、自分自身で解決していこうという意志と行動力を身につけることができるといいます」(『人間関係を豊かにする授業実践プラン50』小学館・教育技術MOOK、p26)
指導とは結果を与えることではない
誤解されがちですが、指導とは、充実した過程を与えることであり、結果を与えることではありません。
話し合いの場で、議論の進展をサポートし、参加者の相互理解や協力を促すことを「ファシリテーション」といいます。指導者は、生徒にとってそのような役目を担うべきであり、生徒に結果だけを与え、影響を及ぼしたと悦に入っているような教師は、教育というものの目的を再度確認するべきでしょう。
- ファシリテーターとしての教師
- 「これからの教師には、知識の伝達者よりもファシリテーターとしての役割が重要視されています。学びの主役は生徒です。ファシリテーターとしての教師は、生徒たちが知識・技能・態度・価値を自らつくり出したり身につけるのをサポートするために、自らがそれをモデルで示し、また生徒同士の教えあいや学びあいの環境をつくり、時間内に物事がスムースに運ぶことに努めます」(『「考える力」はこうしてつける』ジェニ・ウィルソン、レスリー・ウィング・ジャン著/吉田新一郎訳/新評論/P.19)
ファシリテーターは、補佐役であり、主役ではありません。とても地味な役回りです。しかし、伝えたかったことが生徒の中に息づいているのなら、たとえ自分が忘れられたとしても、それでいいのです。私たちの目的は、生徒の思い出に残ることではなく、生徒の未来を拡げることです。指導者の人格や人生は、あくまでも生徒の人格や人生を裏から支えるものです。そして、生徒自身が学校や教室、そして教師を離れ、自分自身で進んでいくことを促すものです。
そうした、自分を忘れる覚悟が、指導者の人格です。
迷っていれば、教えてあげたくなります。しかし、教育とは、結果や最良の選択を「教える」だけではだめなのです。あえて「教えない」指導をしなければ、子どもの自律性は育たないのです。
社会に出れば、体罰はありません(あったとしたら、それは傷害です)。教え諭してくれる人もいません。学校では経験したことのない、より厳しい問題に直面するでしょう。私たちは、自分の行動の結果を引き受けながら、よりよいあり方を自分で考えていかなければなりません。
家庭での指導
結果を与えない指導が必要なのは、学校だけではありません。むしろ、家庭でこそ、取り組んでほしい問題です。
例えば、片付けが遅かったり、朝、なかなか起きて来なかったりした場合、どうしていますか。小3くらいから、子どもたちは物事の因果関係の理解ができるようになってきます。その発達の段階に合わせ、自分の行動の責任を自分でとっていくという経験が必要になります。
克服すべき課題がある場合、まずはそれについて、話し合います。叱るのではなく、必要性や手段などを、一緒に考えましょう。そして、自分でやらなければならないことを、確認します。重要なことは、お子様がその問題を乗り越えられると信じてあげることです。子どもたちは、こうした話し合いや信頼があって初めて、安心して試行錯誤ができるようになります。
片付けが遅い場合、つい手伝いたくなってしまいますが、じっと見守ることも必要です。もし、うっかり飲み物をこぼしてしまったのなら、叱るのではなく、自分で掃除をさせましょう(もちろん、手伝ってあげても構いませんが、行動の主はあくまでも本人です)。こうしたことを自分ではうまくできない場合は、再び、どうすればいいのかを一緒に考えましょう。そして、自分の行動の責任を自分で果たせたのなら、心から褒めてあげましょう。
叱らないと何もできない、のではありません。叱るから、何もできなくなってしまうのです。大人は、つい先回りして結果を予測し、子どもに同情してしまいます。しかし、本当に必要なのは、自分で自分の責任を果たしていくという「誇り」を育ててあげることなのです。そうしなければ、子どもたちは自ら判断せず、叱られるのを待つだけになってしまいます。
お子様の成長に合わせ、一歩引いた場所から、見守ってあげてください。保護者として、もどかしく感じることもあるかと思います。しかし、失敗も、大切な学びです。その眼差しは、お子様に安心感を与え、自主性を育みます。