この世界の記憶と描写の力

生き生きとした文章には描写が必要

生き生きとした文章を書きたい場合は、描写が大切です。

文章ができごとの羅列になってしまう場合、それはできごとの「説明」であり、描写ではありません。
読者をその感性ごと文章の世界に引き込み、心情や印象を追体験してほしい場合は、説明ではなく、描写をしなければなりません。

描写の例

次の文章は、小学二年生の生徒が教室で書いた文章です。
授業の一環としてジオラマをつくり、その風景から浮かんできた場面を文章にしたものです。

授業で制作したジオラマ

ふゆのゆきやまにしかがのぼってきました。

しかは、ゆきですべってなかなかあがれませんでした。それでもなんとかちょう上につきました。でも、つかれていたので、近くの木のしたにすわっていました。

しばらくすると、木の上からゆきがおちてきました。しかは、びっくりしました。あたまについたゆきをおとして、木のねもとにふきかけました。すると、木のねもとにゆきがかかりました。

「ふゆのゆきやま」という全体像から始った文章は、だんだんと鹿の描写に移ります。そして、最後には鹿の目を借りて、木のごつごつした樹皮にかかる細かな雪までが、読者の心の中に見えてきます。

また、次の詩は中学三年生の生徒が書いたものです。キャンプの朝の記憶を、講師と話し合い、イメージを共有しながら書き上げました。

「響く」

チロチロと降る雪に、朝日があたる。小さな光が目に映る。まるで氷の粒がぶつかり合うように。聞こえない音が、心に響く。

くもり気味の空。川の音が聞こえ、うっすらと山が見える。空から山ぎわに、光が一瞬。まるで火花が散ったように。まぶたの裏に、一筋の響きが残る。

質感とイメージの力

描写の核心は、五感で感じるこの世界の「質感」です。
質感とは、たとえば干してあるバスタオルを触ったときの乾いたざらつきや、プールの底に映る光の編み目のゆらゆらした感じ、もうここにいないのにふと耳によみがえる声など、心の底に蓄積しているこの世界の印象と言ってよいでしょう。

描写は、俯瞰的な視点ではなく、表現したい世界の中に、一人称で入り込まなければなりません。
そのためには、その世界で感じることを再現するイメージ能力が必要ですが、以前書いたように、イメージの力を使うことが難しい子もいます。

イメージは学びの本質です。しかし、イメージをするのが苦手な子もいます。
それには次のような理由が考えられます。

  • 集中力が続かない
  • 自分の内面に気づけない
  • イメージの材料となる知識や体験がない

イメージの力を育てるための3つの視点」より引用

特に、「イメージの材料となる知識や体験」、この世界の「質感」の記憶がなければ、描写をすることも、描写を読んで受け取ることも、難しくなります

質感のある体験の大切さ

質感を持った体験を得ることは、近年、難しくなっています。
たとえば、土にさわったことがない子がいました。理由を聞くと、「汚いから」。
土にさわったことがない子、というのは極端な例ですが、夕立に打たれたことがない・虫にさわったことがない・木に登ったことがない・海で泳いだことがない子などは、思うよりもたくさんいます。

夕立に打たれたことがなくても、それがどういうものかは想像できます。しかし、個人の感情や印象をともなった体験ではないため、テレビやマンガで描かれるステレオタイプな想像になりがちです。

そのため、「夕立に打たれた」という描写を読んだとき、そこから得られるイメージに大きな差が生まれます。
体験がある子の場合、ぬれた服の重みや、視界がにじんでうまく目を開けていられない感覚、何か息苦しい感じ、こみ上げてくる笑い、頭の隅にある後悔などのイメージが一気に想起されますが、体験がない子の場合は、そうした質感がすべて飛んでしまい、ただ「夕立に打たれた」という表面的な情報だけが残ります。

心理学者ジャン・ピアジェ(Jean Piaget, 1896-1980)が指摘するように、子どもたちはまず、具体的な体験を通じて考える力が養われ、その後、身体を使わずに、頭の中だけで操作する思考力が育まれます。直接的な「体験」の豊かさは、表現力や理解力の基盤なのです。

鉛筆は、「鉛筆」に留まらない。よく見れば、木肌や、二つの木の接着された線、黒い芯に映るとても細なきらめきに気づく。鉛筆は「鉛筆」ということばから解放され、木や、黒鉛が組み合わされた「もの」となる。

今、自分が生きる世界をよく見て、「紙」や「鉛筆」といった言葉から自由になるところから、自分の言葉が生まれる。この段階を飛ばしてしまうと、曇りの日の海なのに、「海」だから青く描いてしまったり、夏の花壇の花なのに、「花」だからチューリップを描いてしまったりする。

この世界でひとつだけの鉛筆note)」

もちろん、体験したことしか書けない、読めない、というわけではありません。私たちは想像の力を使い、今・ここ・私とは異なる世界に入り込むことができます。しかし、そうしたイメージを羽ばたかせるには、その基となる現実世界の質感がどうしても必要になります。

「りんご」という文字や音を食べることができないように、ことばは、「それそのもの」ではありません。自分自身の質感をともなう具体的な体験が、誰とも違う、自分だけの豊かな描写を生み出します。

体験は、耳を澄ませることから

質感をともなう体験をするには、必ずしも自然の中に行かなければならないわけではありません。雨の音、透き通った傘の色。日々の暮らしの中、大きな音ではなく消えゆく音に、激しい動きではなくゆっくりとした動きに、目立つ色ではなく小さなささやかなものの中に、生きて感じるこの世界の「質感」はあふれています。机の上の学習だけでなく、そうした質感を五感で味わう時間が、子どもたちには必要なのです。

まずは耳を澄ませて、目を凝らして、手を伸ばしてみるところから、表現を始めてみましょう。

この記事を書いた人: リテラ「考える」国語の教室

東京北千住の小さな作文教室です。「すべて子どもたちが、それぞれの人生の物語を生きていく力を身につけてほしい」と願いながら、「読む・書く・考える・対話する」力を育む独自の授業を、一人ひとりに合わせてデザインしています。

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カテゴリー: 教育コラム

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