ブックプロジェクトのテーマ
高校2年生のT・Y君のブックプロジェクトのテーマは「社会の痛みと息苦しさ」です。管理され、便利になるほどに孤独になっていく私達。社会の中で増大する個人の痛みにどう向き合っていけばよいのか、多数の文献を横断的に活用しながら考えを進めています。
作品の紹介
「ギヴァー」に見る「祈り」
高2 T・Y君
現代の行く先とは
古代から、人間は自身の労苦や苦痛を減らそうと不断の努力を続けてきた。そして産業革命以降、その流れは凄まじい勢いで加速している。1876年に、グラハム・ベルによって開発された電話機は、約150年後の今日では、音声だけでなく、実際に相手の顔を見て話ができる小さなコンピューターにまで進化している。それまで、馬や自身の足が主な交通手段だった日本でも、1911年にはガソリン車が作られ、現在では、人が手を触れずとも、運転が可能になっている。このように、様々な困難が取り除かれ、未然に防がれていく先に、我々はどのような世界が待ち受けているのだろうか。
「ギヴァー」の世界
その一端を示したのが、ロイス・ローリー作『ギヴァー 記憶を注ぐもの』だろう。この物語は、すべての人々の記憶を管理する「ギヴァー」と、その記憶を受け取る「レシーヴァー」ジョナス、そして、彼らを取り巻く異常な社会を描いたSF小説である。物語前半は、彼らが暮らす「コミュニティ」と呼ばれる閉鎖社会で話が展開していく。最初に描かれるのは、私達が暮らす世界と変わらない、なんの変哲もない日常だが、物語が進むにつれ、「コミュニティ」がはらむ異常性や狂気が顕になっていく。物語後半は、「コミュニティ」の全記憶を司る「ギヴァー」と、それを受け継ぐ「レシーヴァー」に任命されたジョナスの二人を中心に進行していく。雪や虹、湖といった幸福な事柄の記憶から、怪我、戦争、そして死といった不幸な出来事の記憶まで、様々な概念を受け取っていくジョナスの中に、「コミュニティ」への疑問や不満が生じてくる。そして、ジョナスは、殺処分される予定だった赤ん坊のゲイブリエルとともに、「コミュニティ」を出ることを決意する。
「痛み」と「息苦しさ」
「ギヴァー」の世界で暮らす人々は、一切の感情の隆起させることなく一生を終え、より効率的に全員が生きるために、一定の年齢になればどんな人も殺処分される。そして、「コミュニティ」に暮らす人は全員、そのことについて何も感じない。これは我々から見れば明らか異常なことだ。だが、はたしてこの「ギヴァー」の世界が、我々と完全に無縁だと言い切れるだろうか。
冒頭でも述べたとおり、人類は時代を重ねるごとに物事を自動化・簡略化しようとする。森岡正博氏の言葉を借りるなら「無痛化」という現象だ。「無痛化」とは、苦痛が排除、あるいは事前に排除され、「痛み」や「生きる喜び」と呼ばれるようなものが、失われていく現象のことだ。だが、決してこれは悪いことではない。むしろ、人類の発展という意味では必要不可欠であろう。だが、我々がこの「無痛化」の状態に慣れ、森氏の『無痛化する社会の行方』で表現されている「砂糖水に溺れていくような社会」に向かっているというのも事実である。砂糖水は甘いが、海ほどもあれば溺れて窒息する。同じように、我々は、気持ちがいいけれどもよろこびがない、刺激が多いけれども満たされないという「息苦しい」状態へと社会全体で邁進しているのだ。
この「無痛化」という現象はテクノロジーなどに限った話ではない。人は同じ人間同士の関係性の簡略化・自動化をすでに始めているのだ。岸政彦氏の『断片的なものの社会学』の中では、人間関係も無痛化していくと延べられている。東京のような都会では、人のいない空間が一番お金がかかる。人との接触は基本的に「痛み」として認識されるからだ。満員電車に乗っていて気持ちいいと言う人がいたら、それはかなりの変人だろう。岸氏は、現代人が持つ「相手の心に踏み込まない」という行動原理が、この社会において非常に強力に作用していると述べている。自分と親しい人が、マルチ商法やカルト宗教にハマっている時、多くの人は「本人が良ければそれで良い」という。「本人が良ければ」という言葉を使い、面倒事に関わることで発生する「痛み」から逃げているのだ。
だが、人との接触は時に、ぬくもりや救済をもたらす。よく、高齢者が、病気でもないのに病院に行く。岸氏のインタビューによれば、それは「触診で肌を触ってもらえるから」だそうだ。仮に、「人に触れる」ということが禁じられたら、これらの諸問題はどのように変わるだろうか。息の詰まる満員電車は解消されるだろう。体育の授業で手をつないで輪になって踊ることもなくなる。そして、触診されに来た高齢者は、空虚な寂しさを味わうことになる。
他人との関わりの難しさを象徴するものとして、ミゼットプロレスの話がある。差別的、という理由で、日本では1970年台に入る前に人権団体によって中止されたこの格闘技は、低身長症の人をレスラーとして行われるプロレスだ。低身長症の人にとっては数少ない働き口だったが中止されたことで、多くの選手が職を失った。「他人への干渉」は、優しさになる。だが、時として、ひどい暴力にもなる。だからといって、干渉することをやめてしまえば、仲間も家族もいなくなり、孤独という「息苦しさ」に苛まれることになる。
苦悩により演出される人々
では、人との接触にともなう「痛み」や、孤独であることの「息苦しさ」をすべて取り去る、あるいはごまかすことができたら、人は幸せになれるのだろうか。「ギヴァー」では人々は決められたように生き、決められたとおりに死んでいく。生命の管理・統制に対する耐え難い「息苦しさ」や「痛み」を感じることもなく、ただの「生活する機械」に成り果てていた。それが幸せと言えるのだろうか。
現代の「無痛化」する社会は、大衆社会であり、あらゆるものが均質化する方向に動いてゆく。均質になった社会での人間関係は、ちょっとした差異や齟齬に敏感になる。故に、「痛み」や「息苦しさ」といったものを押し込めるための内在的な圧力が個々人の中で構築されていく。そして、他人との差異からくる不安が蔓延することになり、結果的に「自分の本質」をさらけだすことが避けられる雰囲気が社会全体で作られている。しかし、均質化された人々の中で自分が素晴らしいものであると、他人に、そして自分に思い込ませるためには、SNSなどの間接的なコミュニケーションにおいて自分を演出する他にない。故に「偽りの自己」を作成する機会が増え、結果として自己承認欲求が高まる。人は、自分の存在について考えるだけの頭脳を持っている。だが、自明のこととして、この問いに対する明確な答えは得られない。そして、この問題を死ぬまで抱え続ける事になり、「痛み」や「息苦しさ」を常に意識することになる。そして、自己承認欲求は高まっていくのに、「自分の本質」をさらけ出す機会が失われ、社会全体に「偽りの自己」が氾濫する現在の社会が生まれた。「偽りの自己」によって、自らを「演出された自己」でしか見られなくなった我々と、「コミュニティの機能」としてのみ存在していた『ギヴァー』の人々は、ともに自身を機能的にしか捉えられなくなっているのだ。
鷲田清一氏の『「つながり」と「ぬくもり」』によれば、現代人は自分がここにいるという感覚について、自分がここにいるという事実の確認だけでは足りず、自身を取り巻く状況に、自分の存在を求めているという。つまり、「つながり」に依存するようになっているのだ。そして我々は、自身の存在に起因する「痛み」や「息苦しさ」を、「祈り」として「つながり」の中に流している。同じ境遇の人間同士でより集まることで、完全にではないがお互いを知ることができるかもしれない。「偽りの自己」を演出することで、自分の「痛み」や「息苦しさ」を騙し通せるかもしれない。だが、岸氏によれば、これらの「祈り」は正確には相手に届かない。無視され、拒絶されることもある。しかし、自分の存在そのものを他人に認めてもらうには「祈り」続けるしかない。
発した「祈り」が拒絶されるということは、すなわち、自己の存在の否定に他ならない。これは非常に残酷なことである。しかし、我々が「祈り」を発することで返ってきた、あるいは返ってこなかったメッセージを通して自己を形成する以上、この残酷さに向き合うことは、人にとって避けては通れない道だ。さもなければ、自己が確立されず『ギヴァー』の人々のように、「生きる機械」になってしまう。ゆえに我々は、人として死ぬまで「祈り」を乗せた言葉を発し続けなければならない。たとえそれがどんなに辛いことであっても。